「敬語をちゃんと使えているか不安」という人は多いのではないでしょうか。
最近は関連書籍もなかなかの売れ行きだ、と何かの記事で読んだことがあります。
普段、外国人に日本語を教えていて思うことがあります。
我々日本人は敬語というものをいつ、どこで「習った」んだろう…
僕は少なくとも学校などで「習った」記憶はありません。
しかし、個人差はあれど小さい頃から理解はでき、
一定の年になると誰でもある程度は使えるようになっていますよね。
そのような理由から敬語の使用には不安を感じる人が多く、
また個人差もあるのかもしれません。
最近はサービス業を中心に外国人が増えていますが、
彼らも拙い日本語で一生懸命敬語を使っています。
日本人にとっても厄介な敬語。
この敬語を使うことを彼ら外国人はどのように思っているのでしょうか。
僕は基本的に外国人が敬語を使いこなせるようになる必要は全くないと思っています。
今回は外国人が敬語を使うことについて、また我々日本人の意識について、
日本語教師の立場から日々感じていることを書きたいと思います。
本当に敬語は外国人に必要か?
冒頭にも書いた通り、僕は外国人が敬語を上手に使いこなせるとようになる必要はないと思っています。
彼らに日本語を教える立場上、テキストに出てくれば
「日本社会では必要だ」
「できないよりできた方がいいに決まっている」
と言って、使えるようになることの重要性を伝えますが、
教えていて疑問に思うことは、果たして彼らに敬語は必要なのかということです。
敬語は難しく、学ぶ彼らにとっては本当に負担が大きいものです。
・尊敬語・謙譲語の使い分け
・敬語といっても形が一つではない
飲む…「飲まれる」「お飲みになる」「召し上がる」
・同じ敬語で複数の意味を持つ
伺う…「敬意を払うべき相手がいる場所に行く」「話を聞く」
・使い分けが紛らわしいもの
参る…「その場所へ行く」(単なる聞き手に対する配慮)
伺う…「敬意を払うべき相手がいる場所に行く」
「です・ます」でしっかりと話せればそれで十分。
仮に彼らが敬語を使わず、「です・ます」で話したとしましょう。
不快に思う人がどれぐらいいるでしょうか?
最低限失礼のない日本語を使っていれば(友達言葉では困りますが)、
コミュニケーション上トラブルになることは少ないと思います。
それよりも言葉や表現を増やし、相手との人間関係構築に時間を費す方が
はるかに有意義だと思うのです。
日本語教育の現状
しかし、現在の日本語教育や日本語学習では必ずといっていいほど敬語の学習項目があり、
形の変換やフレーズをそのまま覚えさせたりするような方法で教えています。
クラスレッスンやテキストを使った学習などではこのようになることは仕方がないことですが、
敬語が使えているほとんどの外国人は、実はアルバイトなどの「職場」で使いながら覚えています。
日本語教育機関では学習項目をこなすための学習、知識の確認になってしまっているのが現状で、
あまり運用には繋がっていないと感じます。
就職してすぐに会社に入り営業職などに就く、というならわかりますが、
単なる「日本語学習」の一つの項目として教えているだけなら、
彼らの負担を少しでも軽くするためにも、その意義を改めて考えた方がいいのではないかと思うのです。
外国人に必要な敬語とそのワケ
では、外国人は全く敬語ができなくてもいいのか、というと決してそうではなく、
「全く敬語を知らない」というのではさすがに困ります。
「困る」というのは我々日本人ではなく、「彼らが」です。
なぜなら、自分達は敬語を使わなくても生活はできますが、
日本で生活をする以上、彼らの周りは常に敬語であふれているからです。
「自分たちが使えるようになる」というより
「人が使う敬語がわかるようにする」という意味で敬語は必要と言えます。
客として店に行っても、駅や電車の車内でも、病院でも…
敬語で話しかけられる場面を挙げると、キリがありません。
つまり、敬語で話しかけられたらそれを理解するぐらいの知識は最低限彼らに必要だということです。
敬語を理解できるかできないかは彼らの生活に直結した問題になります。
「書類の記入方法が終わったら、おっしゃってくださいね」
「おっしゃって…」
「部長さんにご無沙汰しておりますとお伝えください」
「??(何を伝えればいいんだろう)」
そもそも敬語とは
敬語を使うのは、
「相手を敬う」
「自分がへりくだることで相手に敬意を表す」
といったことを相手に伝えるためです。
相手を思ってこそ、ということです。
コミュニケーションを円滑に行うため、と言われればそれも大事な要素ですが、
「敬語を使いさえすればいい」というような気持ちで敬語を使っているとしたら、
それは相手のことを考えていない、つまり相手への敬意はなくなり、
敬語自体が形骸化しているということではないでしょうか。
そんな言葉を彼ら外国人は大変な思いをして学び、また使い方で苦労する。
これは外国人のみならず、我々自身も改めて考えるべき問題であると思います。
「ご注文は以上でよろしかったでしょうか」
「資料を拝見致しました」
「ご存知でいらっしゃいますか」
マニュアル敬語、過剰敬語などを外国人が使っているのを聞くと、
複雑な気持ちになることがよくあります。
しかし、敬語を使わないことでコミュニケーションに困るのなら使った方がいい、
という意見ももっともだとは思います。
ただ、何度も言いますが、敬語を日本人同様に使いこなすのは大変なのです。
我々日本人が考えるべきこと
我々は彼ら外国人と接する時、どのような点に気をつければ良いのでしょうか。
お互いが伝えたいことを「共有」できて初めてコミュニケーションは成立したと言えます。
「使わなければならないから」「使うのが普通だから」ではなく、
相手のことを想った日本語の使い方をするよう心掛けるべきなのではないでしょうか。
それが敬語の本質でもあるはずです。
相手が外国人なら、彼らにわかる言葉で話しかける。
(彼らの日本語力にもよりますが)
わかりやすく言えば、
小学生高学年ぐらいの子供に話すときに使う語彙レベルで話すといいかと思います。
子供扱いをするということではなく、「語彙レベルを変える」ということです。
お客様だから、マニュアルにあるから、使わないと注意されるから、
ではなく一人一人に合った言葉を選ぶ。
私たちは普段、子供やお年寄りには言葉を選んで話していませんか?
相手に伝わる言葉で話してこそ意味を持つコミュニケーションです。
話す側の都合を第一に考えた「伝える」だけの話し方は、
「伝わること」を無視した不親切な一方通行です。
私達の共通コミュニケーションツールである日本語。
お互いが相手を想いやって使えるといいですね。